2009年6月22日月曜日

h21.6.22  読書という「体験」

 図書だより(6月)が発行されました。
 高等学校学習指導要領の改訂のポイントの一つに、「言語活動の充実」があげられています。
 五感ではものを感じることはしますが、考えることはしません。私たちは言葉でものを考えます。その意味でも言語活動は重要です。
 さて、読書は体験になるのかどうか。私は図書だよりに下記のような文を寄せました。稚拙な文で恐縮ですが、お読みいただければ感謝感激です。(2009.6.22)

「本を読むという体験」 
 私たちは、五感を使ってあらゆるものを感じとります。赤ん坊の時の私たちは、五感から得た情報を基に、外の世界を感知し反応します。
 ものの感じ方や性格は、母親の声の抑揚や母親や周りの人々の接し方によって決まるといいます。幼児が言葉を覚え始めるときは、母親等の声という音と実際の物を認知する体験と、その音を発音することで大げさな賞賛を浴びることで、音を覚えるのだと思います。そしてそれを使えば、母親等とコミュニケーションできることを体験するという具合です。そしてそれが言葉だと気づくのは、ずっと後のことです。
 喜怒哀楽の表現の段階にはいると、親の喜怒哀楽によって、喜怒哀楽という感情と親の喜怒哀楽の文化を一緒に受け継ぎます。つまり私たちの感性は、本能的な感覚だけではなくて、親の感情の文化的な基盤を引き継ぐということになります。感性と理性という表現をよく聞くと思いますが、感性は感覚的なことを、理性は論理的なことを司り、お互いに影響し合って、自分の認識の世界をつくり上げます。この二つのバランスをどのようにとるのかが、その人の個性なのだといってもいいのです。
 読書は著者の感性に導かれて、自分の感性を磨きます。また著者の理性に導かれて、自分の理性を磨きます。その体験が私たちの認識の世界を広げてくれるのです。その効果は、私たちが体験で得るものとほとんど変わりません。体験は、いいこと悪いこと、雑多なものすべてを受け入れなければなりませんが、読書は実際の体験よりは整然と整理した形で体験をさせてくれます。
 生徒のみなさん、自分の感性、理性、そして自分の認識の世界を広げてくれる本を読みましょう。