2011年7月22日金曜日

2011.7.22 昆愛海(こん まなみ)ちゃんという女の子



昆愛海(こん まなみ)ちゃんという女の子

写真は沖縄県伊江島の海(2011.6.8 多部制3部修学旅行)





 岩手県宮古市の昆愛海ちゃん(当時4才、5月10日で5才)は、3月31日に「ママの帰りを待っている 入り江を見つめる女児 父の携帯を握りしめ」という読売新聞の記事で取り上げられた女の子です。この記事を書いたのは立石紀和カメラマン。彼は震災から一週間後、津波に襲われた宮古市の手鶏という漁村で愛海ちゃんに出会った。愛海ちゃんは地震の時は保育園にいて、迎えに来たお母さんと自宅に戻った。自宅は高台にあり避難所になっている小学校と隣接していて安全なはずだった。 しかし帰宅した瞬間、30m超える巨大津波が襲ってきて、両親と妹の蒼葉ちゃんと愛海ちゃんは津波の引き潮にさらわれた。愛海ちゃんは背負っていた通園用のリュックが漁に使う網に引っかかったために、一人だけ奇跡的に助かり、同じ地区の親戚宅に引き取られ、孤立状態で4日間を過ごした。一週間後に市内の内陸部に住む祖母の静子さんに会うことが出来た。「表情は沈んでいて、何も話さず、言葉を忘れてしまっている」状態であった。

 そんな時に立石カメラマンは愛海ちゃんに出会った。彼はそれから時々愛海ちゃんに会いに行き、トランプしたり、絵本を読んだり、おやつを食べたりした。3月22日に、いつものようにトランプでババ抜きをしていると、突然ママに手紙を書くと言い出し大学ノートを広げた。愛海ちゃんは色鉛筆で、覚えたばかりのひらがなで一文字一文字ゆっくりと手紙を書き始めた。分からない字があると調べながら、「ままへ。いきているといいですね。おげんきですか」 1時間くらいかけてそこまで書くと、疲れてしまったのか、寝入ってしまった。 その記事には、手紙文が書かれた大学ノートの上に頬をのせて寝入っている愛海ちゃんの写真が付けられた。 愛海ちゃんは、笑顔は少し戻ってきたものの、自宅には近づくのを嫌がる。 変わり果てた入り江を見下ろす時はふと辛そうな表情を見せる。余震の心配があるので、おばあちゃんの静子さんは自分たちの家につれて帰りたいが、愛海ちゃんは「ママが帰ってくるまで、ここで待っている」といって聞かない。「パパから電話がかかってくるかな」と言って、携帯電話が通じない被災地で、電源を入れたままにして握っている。


手紙には続きがある。「おりがみとあやとりと ほんをよんでくれてありがと」お母さんの由香さんは32才。「ぱぱへ。あわびとか うにとか たことか こんぶとか いろんなのお とてね」お父さんの文昭さんは39才。おばあちゃんのお手伝いをしたり、配給所にトイレットペーパーをもらいにいったりと頑張っている。胸のポケットにはいつも旅行に行ったときのママの写真を入れている。「ママかわいいね」時々その写真を見て胸に寄せる。 しかし愛海ちゃんは突然泣き出すこともある。夜は布団の中でおばあちゃんの首にしがみついて寝る。


4月24日には妹の蒼葉(あおば)ちゃんの4才の誕生日を祝った。5月9日からは8キロ程離れた隣町の児童館に通い始めた。朝おばあちゃんに髪をとかしてもらい「早く行きたい」とはしゃいだ。 今でもよい子にしていればみんな帰ってくると愛海ちゃんは信じている。


5月10日に愛海ちゃんは5才になった。

3月31日の記事を見たニートの男性から読売新聞社のサイトに書き込みがあったそうだ。

「愛海ちゃんの記事を読んで、自分が甘えていることに気付きました。仕事を探しに行きます」


 愛海ちゃんには、おばあちゃんやその他いろんな人に支えられながら、時間を十分にかけて少しずつ少しずつ自分の置かれている現実を受け止めていってほしいと心から祈らざるを得ません。



4才の女の子も戦っています。私たち教員は、生徒たちの進路開拓に対して、出来ることとするべきこととやれることをしっかりやりきろうとしています。生徒たちには自分の甘えに対して戦うことを求めたいと思います。そしてご家庭では、決して子ども任せにせずに、親と子が一緒になってしっかりと子どもの進路を考えていただくことを、お願いしておきたいと思います。                         (飾工PTA会報に掲載)